okuraakira nexx

(仮)
Apr 13
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論文を書くためには、まず資料を集める。そして、収集した資料を分析し、理論を立てるという論理的思考が必要である。

 「論理的に思考する」というのは、今の自分の考え方を「かっこに入れて」、機能を停止させる、ということである。

 「今の自分の考え方」というのは、自分にとって「ごく自然」と思えるような経験や思考の様式のことである。目の前に問題があって、それがうまく取り扱えない、というのは、要するに、その問題の解決のためには「今の自分の考え方」は使いものにならない、ということである。

 それはペーパーナイフでは魚を三枚におろすことはできないのと同じである。使いものにはならない道具をいじりまわしていても始まらない。そういうものはあっさり捨てて、「出刃」に持ち替えないといけない。「論理的に思考する」というのは、煎じつめれば、「ペーパーナイフを捨てて、出刃に持ち替える」ことである。

 しかし、ほとんどの学生はその貧弱なペーパーナイフを固く握りしめて手放そうとしない。あくまで自分の「常識」だけで、料理をなしとげようとする。自分の道具にこだわりを持つ、というのはそれ自体悪いことではない。しかし、それでは「三枚におろす」どころか、ウロコの2,3枚をはがすのが精一杯である。

 論理的に思考できる人というのは、「手持ちのペーパーナイフは使えない」ということがわかったあと、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試してみることのできる人である。金ダワシでウロコをはぎ落とし、柳刃で身を削ぎ、とげ抜きで小骨を取り出し、骨に当たって刃が通らなければ、カナヅチで出刃をぶん殴るような大業を繰り出すことさえ厭わないような「縦横無尽、融通無碍」な道具の使い方ができる人を「論理的な人」、というのである。

 よく「論理的な人」を「理屈っぽい人」と勘違いすることがあるが、「理屈っぽい人」と「論理的な人」はまったく違う。

 「理屈っぽい人」は一つの包丁でぜんぶ料理をすませようとする人のことである。

 「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである(レヴィ=ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した)。

 「自分の考え方で」考えるのを停止させて、他人の考え方に想像的に同調することのできる能力、これを、「論理性」と呼ぶのである。

 論理性とは、言い換えれば、どんな檻にもとどまらない、思考の自由のことである。